タジェラヒン、秘境の台地

DAY 1 . 12月28日

ジャネットからエレヘルのオアシスへ向かって国道を走った。同行しているのは溝口さん、大ちゃんとチカさんという日本人3名で、これからロバ隊と一緒にタジェラヒン台地を登って6日間を過ごす予定だ。10年ぶりのサハラ・エリキのツアーに興奮するが、私はパリの実家が今引っ越しなどで忙しくて、ウェスタンブーツ以外、ビーチサンダルしか持ってきていないのだ。そのビーサンを見てお客さんたちは「それで歩けますか」と心配そうに尋ねた。「ニジェールで3000キロの塩キャラバンもビーサンだったから、なんとかなる!」と答えるが、失敗したことすでに分かっていた。これから行く岩の砂漠はとても寒いのだ、、

アドメル砂漠の砂丘に沿って、エレヘルに3時間で着いた。そこのヤシの木影で長い間、ロバを待った。8頭のロバが集まっても、あとの2頭が来ないと荷物を積めない。各ロバの体力を見てから荷物を振り分けて積まなくてはいけないからだ。今までの私のツアーではロバが遅刻したこと無かったので少し焦ったが、今回はいつものジャネットのチームとは違うので仕方がない。今回同行するのは、60歳くらいのガイドにコック、それとロバ使い二人だ。結局、私はガイドに頼んで、先に歩き出した。山のオアシスは美しい夕方の光に照らされていた。まもなく日が崖の裏に沈み、気温はあっという間に下がった。

ガイドは「ここでキャンプするからロバを待ちましょう」とタマシェック語で言うが、ロバが着かないと私たちの荷物も着かない。そして寒い。「薪を探しましょう!」。さっそく皆は動き出し、大きい枝も小さい枝も、アカシアやヤシの木のもの全部集めてきた。大きな炎が空に上り、皆で温まりながら、日本のお菓子を食べながら待った。ロバ隊がやっと見えた時はもう夕暮れだった。皆は薄暗い空にテントを立てるのかと、私はため息をついた。ちゃんと飼育されていないロバが一頭でも混じっていると、このようにスケジュールが遅れるのだ。それにお腹がぺこぺこ、皆は寝ていないのだ。しかしコックがさっそく作ってくれる夕食を待っている間に、私は離れたところでマットを敷いて、独り寝のベッドを作り始めると気分がなおった。トゥアレグの友達にラクダの毛のケープと寝袋を借りて、市場で5キロの毛布も買ったので、星空を見ながらこれでぐっすり眠れるはずだ!しかしおいしいスープと野菜シチューを食べてから、空の下のベッドにもぐった途端に、山からジャッカルの吠え声が聞こえた。しかもすごい数だ。私はその声に耳を傾けながら、ロバ使いたちにジャッカルの様子を聞きに行った。「そうだ。ここは多いよ。君ももうちょっと近くで寝れば良いのに!」と言って笑った。「でもジャッカルは人間を襲わないでしょう?」と確かめると、「うん、その通り」と答えた。私はまた聞いた。「じゃ、どうして近くで寝た方がいいの?」「なんとなく」。トゥアレグはいつもこんな感じだから諦めてベッドにもどった。それで不気味な吠え声を聞きながら砂漠の流れ星を待った。「でも…ジャッカルは一頭だけじゃあぶなくないけど、群だとどうなるのかな?」そんなことを思いながらいつか寝てしまった。

DAY 2 . 12月29日

タジェラヒン台地を3時間で登った。1950年代、フランス軍が作った山道があるから歩きやすいが、車ではとても登れないところだ。台地の上に着くと、大きな岩の壁にティフィナグ文字が赤く書いてあった。北アフリカの原住民であるベルベル族が共有しているアルファベットが約2000年前に存在していたそうだ。トゥアレグ族は口頭伝承だが、ティフィナグ文字を教えるのは女性たちの大事な役割の一つだ。しかし、同行しているガイドおじさんのアイサは、オアシスに定住しているせいか、ティフィナグをよく読めないという。この岩から見渡す限り広がる大地を眺めていると、この文字を書いた人きっと凄い詩を残したに違いないと思った。しかし、その後ティフィナグをよく知っている友人にこの写真を見せたら、彼は笑いながら、「これはラッラという女性がタルハナクというもう一人の女性に書いた伝言らしい。その意味は「ラッラはタルハナクに対して怒っています」と言ってびっくりした。世の中、本当に謎だらけ…

昼食を食べた後にガイドはタン・ハディジャというところまで案内してくれた。綺麗な岩絵がいくつかあったが、それより私は思いがけないところに緑が植えられていることに驚いた。「ハディージャのところ」を意味するこの岩の砂漠ではハディージャという女性が住んだのだろう。数箇所の岩絵を観察してから、優しい日差しが造り上げる影の世界を見つめた。人影も音もない無限のミネラル砂漠の中で、思いがけない緑は眩しく生き生きしていた。まもなく岩の上には座った女性の影が現れた。きっとハディージャだ!

イサラマンという砂漠でキャンプを立てた。トゥアレグ族にとって砂漠はどれも同じではない。それぞれが昔から名前を持っているのことで、道が分かりやすく待ち合わせもできるのだ……実は私も待ち合わせをしている人がいるから、いい名前だと思った。夜、トゥアレグはさっそくトゲラのパンを作った。暑い砂の中で焼く丸いパンは、それなのに一切砂が入っていないのは彼らの特技だ。私は岩の壺の中でマットを敷いて長い間星空を眺めた。何年かぶりにサハラの夜を静かに楽しめた場所だ。

DAY 3  12月30日

洞窟で目が覚めた。個室のような寝床でとてもよく眠れた。コックが用意したパンを炭に焼いて食べ、コーヒを飲んだ。そしてロバたちの後について、台地のさらに奥へと入った。岩絵の名所まではもう一日かかるそうだが、。

限りなく続く平たい台地のあちらこちらに、ティクミズテンという草が植えて、それをトゥアレグ達が一生懸命拾って大事にポケットにしめた。台地にしかない薬草は百の病を治るという。昼に小さい川が流れているキャニオンについた。ヤシの木もあって、とても綺麗なオアシスだ。青い水を見てつい泳ぎたくなった。私はシャンプーとバケツを用意した。が昼食後とても冷たい風が吹き始めたので、入浴を諦めた。とりあえず昼寝しようと思ったが、日なたは暑く、日影は寒いという落ち着かない天気だ。ガイドのアイサに聞くと散歩はできるという。がこの周囲には岩絵がないうえに石の上は歩きにくい。暇だね…とため息ついたら、向こうの岸の岩に山羊の群が現れた。そうだ!暇つぶしに山羊を殺すのだ! 

溝口さんたちは大賛成で、ガイドが山羊使いの女性を呼んでくれた。交渉した結果、4人で割り勘をすれば、2000円くらいだ。白黒の山羊を連れてキャンプまで連れて帰ると、泣き声が酷いから、さっそく喉を切った。屠畜行事を行ったのは、ガイドとコックだった。川の近くの大きい岩の上で山羊は静かに命を落とした。血が岩を真っ赤に染め、周りが全部山羊の部分になった。内臓、心臓、皮などを次々と取り抜く作業を皆が関心ぶかく見つめた。とても丁寧なやり方だ。しかし、山羊は胃に4つの袋を持つため、腸に水で何十回洗っても、草がまだ詰まっている。その夜、山羊肉を少し食べるが、一番美味しいところは明日の大晦日のためにキープしておいた。コックが臓物を長い時間を煮込んだ。

DAY 4.    12月31日

大晦日だ。今日は風が冷たいし、日差しがほとんどないとても寒い日だ。灰色の台地をひたすら歩くとイヘーレンに着いた。弓を持った狩猟をする男たちがライオンを追いかけている。後ろからはエレガントな服装と髪型を持つ女性たちが牛に乗って続き、その後ろからも大きな角の持つ牛や山羊の群がついていく。その下にはキリンの模様が繊細に点々と描かれる。このように様々な遊牧民の日常生活のシーンが描かれているイヘレンのフレスコの岩面は9m x 3mだ。そしてこれはほぼ一人のアーティストの作品でそのことも非常に珍しいものだ。1970年に考古学者アンリ・ロートに発見されてからほとんど顧みられていないが、紀元前3000年〜の岩絵は今まで見たことがない繊細な筆遣いで、まるで現代アートである。これはタジェラヒン台地にしかいなかった白人系の遊牧民が描いたものだと知るともっと驚く。

とても寒い中、キャンプするところへ向かった。洞窟はコックが一生懸命に前日屠った山羊の内臓でスープを作ってくれた。イヘーレンから帰ってきて体が震えるほど凍えた私はこのスープで蘇った。ところがそのスープの匂いにまるで導かれたように、ロバ2頭とロバ使い一人を伴ったウスマンが現れた。タミクレストというトゥアレグのバンドのボーカルである彼と、タジェラヒンのどこかでという約束で待ち合せをしていたが、それがいつで、どこでさえも決まっていなかったから、私は他の仲間たちには黙っていた。そこに頭ボサボサでロバにエレキギターとアンプを積んだウスマンが急に出てくると、皆は目が点になった。「豊田で演奏していたバンドの彼だ!」と溝口さんたちが叫んだ。タミクレストはこれまでに2回ほど来日したことがあるので、ウスマンも日本人は始めてではない。そして彼はぐっすり睡眠をとってから、夜の大晦日ライブの準備をした。

2020年を迎える夜は真っ赤だった。大蛇のような太い薪は空まで舞い上がり、寒気を追い払った。ロバ使いたちは串焼きに石焼の山羊肉を作ってくれて皆で食べた。そしてウスマンはギターを弾き始めた。私が彼に「ギターを持ってきてね」と頼んだ時に、実は彼の手元にはアコースティクギターがなく、そのためアンプと貴重なギプソンをロバに積んで持ってくるとは思いもしなかった。タマンラセットからエヘレルまで700キロ車で走ってから二日間くらい暴れロバと寒さと戦ったウスマンは歌い始めた。ロバ使いのおじさんも傍に来て、とても穏やかな表情を浮べた。何回も聞いたことがあるウスマンの名曲だ。この夜、マリ北部のサハラ砂漠、アザワドのアーティストは、初めてこのダジェラヒン台地の上で演奏したのだった。それはとても感動的な時だった。

DAY  5    1月1日

元旦だ。初日の出を見るために皆は(西暦の正月を祝わないトゥアレグ族を除いて、、)寒い夜明け前に起きて、高台まで歩いた。しかし30分待っても太陽は出なかった。2020年はやっぱりあまり明るくない気配か……。でもコロナ禍になったからこそ、この砂漠でのお正月は忘れることができないと今思う。

Tin Abenharに着くと緑だった時代の砂漠を蘇らせる岩絵を発見した。牛、キリン、猟師、そして謎の絵もたくさん。神か人間か。それぞれの想像力を刺激するアートだ。キャンプで昼食を食べてからまた2時間くらい砂漠を歩いたら、もっとも驚きの発見があった。岩陰にほぼ等身大のカバ一匹がいた!しかも抽象的でとてもモダンな絵だった。同行するウスマンも目が点になった。彼は大昔はサハラ砂漠が緑だったことを、これではじめて知ったのだ。紀元前5000年ごろから、カバはだんだん枯れてくるサバンナの目撃者として、砂漠のど真ん中に生き残っていた。

河馬の岩絵を見てからさらにキャンプへ戻った。台地を歩くととても冷たい風が吹き、ウスマンは急にライターで草むらを火につけた。何しているの!と叫ぶと、彼がただ寒いから一瞬燃え尽くす炎でも温まる気分だ。それで2時間の間、いくつかの焼きついた草むらへ手を伸ばした。まるで燃える柴の前のモーセ(笑)。やっとキャンプ近辺に着くと、氾濫地を見下ろす夕焼けを眺めた。これから冷え込む夜だが、ウスマンがどこか秘密の洞窟を見つけてくれた、

DAY 6 .  1月2日

雨が夜中に急に降ったので岩穴で寝て本当に正解だった。目が覚めると、氾濫地を見下ろす景色もばっちり。まだ寒い一日になりそうだが太陽が光り、ここで皆で一枚の記念写真を撮った。日本人の技師やリフォーム業者、トゥアレグのロバ使い、ギタリスト、謎のジャーナリスト、、多様な人種が集まるグループだ!

ロバ隊の内に暴れロバは2頭があり、その一頭はウスマンの貴重なギターとアンプを運ぶロバだった。別々行動で来た彼は合流する前にもロバが何回も暴れて、まるで狂った闘牛のように突進し、岩にぶつけながら荷物を倒し大変な目に遭っていた。「こいつはロバじゃない!」と訴えるウスマンだが、暴れロバはその日にまた荷物を全部ひっくり返してあおむけに倒れた。みっともない姿勢をとるロバは飼育されていないため何をしてもまた反乱して荷物を倒すのだ。ウスマンが暴れロバを見て、「僕が子供の頃ロバの背に乗ってよく遊んでいたのに」と懐かしく言うが、何ヶ月後、ギターのネックが折れてアンプも壊れてしまい、彼は暴れロバをまだまだ深く恨んでいる。砂漠は過酷だ。

長い行進の後配られる溝口さんたちのアメを大人気だった。岩に座って休憩するガイドの目がぴかぴかと光かり、ウスマンも一服を吸いながら横目でリュックから出されるアメを待っていた。チョコレートなのか、スナック系なのか、それともすっぱいカリカリ梅なのか!毎日楽しみだった 

最後の岩絵の名地、タヒラヒに到着。ガイドがいなければ見つかりそうもないフレスコ画は、ある岩の中に隠れていた。巨大な殻貝の形をする岩の口に入ると、数えきれないほどの岩絵が描かれていた。像、牛、そして白人系と見なされる遊牧民。日常生活や儀式を描くには、どうしてこの岩が選ばれたのか。この謎のことを知っているのは、目の前に延々と広がるタジェラヒン台地だけだろう。

闇に沈む不毛の地。先史時代からタジェラヒン台地に暮らしていた多くの人たちの中で、一番最後に残ったのはトゥアレグ族だ。彼らは、サハラ砂漠を襲った70代〜80代の大干ばつまで、台地で昔ながらの生活を送り続けた最後の民だ。定住化、失業、テロリズムの増加、、数えきれない困難に直面しなければならないトゥアレグの遊牧民は、いつかまたこの台地でゆっくり、そして自由な生き方を取り戻してほしいのだ。

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